第20回 我が幼き頃の思い出

 昔々(と言っても昭和20年代)、池袋の外れに我が家はありました。家は広い玄関に四畳半二部屋、六畳二部屋と台所に続く三畳があり、当時としては少し大きめの民家でした。そこには父と母と祖母、長男、長女、小生の四歳づつ離れた三人の兄弟、合計六人が暮らしていました。父親は頑固でしたが結構腕の良い設計技師で、当時の一流企業からも引き合いが有ったらしいのですが、長崎から東京に出てきた際に大変お世話になった会社に高給を蹴って入ったと母から聞いています。

 厳めしく気むずかしく、仕事一本槍の父でしたが、時として家族に見せる顔は「優しいお父さん」でした。そんな父が小生が一歳を過ぎた頃、犬や猫の後ばかりを追いかけて行くのを見て犬を飼い始めたのです。そんな訳で小生は犬とともに育ち、時には犬小屋で一緒に寝ていたような状態ですので当然小生になついていて、何処に行くにもいつも一緒でした。幼稚園に行く時にも付いてきて、帰りの時間まで庭の片隅でじっと待っており、一緒に帰るという毎日でした。

 何しろ、小生の言うことだけは良く聞いて従っていました。ある時、悪ガキ仲間で小石川の植物園に行くことになったのですがチョロ(愛犬の名前)は入園を拒否されてしまいました。やむなく入り口で待っているように言いつけ、入ることになったのですが、そこはガキです。時間も何もかも忘れて夕方近くまで園内で遊び惚けて、気が付けば四時間も経っており急いで受付に駆けつけて見ると受付の小屋の横にちょこんと座っているではありませんか。おじさん曰く「じっとそこにいて水は飲んだが、お菓子をあげても食べなかった」といいます。
 そうなのです、チョロは何時からか小生が与えたものしか、絶対に口にしなくなったのです。ですから親戚の家に泊まりに行く時などは日数分だけの餌を小生が与えて行かなくてはならないのですが、当時は今のように乾燥して腐らないドッグフードなどはありませんでしたので、できるだけ腐らない物を選び、「二日分だからね!」と言い聞かせ小屋の奥に入れて置くのです。そうすると「ちゃんと二日間で食べていたよ」と毎回、隣のおばさんが報告してくれたのです。

 当時の小生の感覚では飼い犬という感覚では無く、双子の兄弟のような存在であったと思います。いつも一緒に行動するのが当たり前で、親戚の家に行く時などは、なんで電車に一緒に乗っていけないのかが不思議でしようがありませんでした。小生が喜べば一緒になってはしゃぎ、叱られて泣けばやさしく泪を舐めてくれ、駄菓子を買えば半分づつにして一緒に食べました。何をするにもいつも一緒だったのです。幼き頃の記憶なので定かでは有りませんが、意思が通じ合っていたような感じが有りました。しかしそんな楽しい日々もついに終わる時が来るのです。

 頑固で怖く、元気だと思っていた父に肺癌が宣告されたのです。
 父は勤めていた会社の設計を一手に担っていたらしく、治療には全社一丸となって協力してもらい、当時の最新医療で相当に高額であった放射線治療も受けさせて頂いたと言います。しかしながら思いのほか癌の進行は早く、半年も経たないうちに末期に陥ってしまいました。余命三ヵ月の宣告を受けて父もようやく覚悟を決めたようで、身辺整理を始めました。
 当時の幼い小生にとっては分からなかったのですが、毎日夜になると知らない人が訪れ、長々と父と話して、深刻な顔で帰っていきます。時には小生に「これからはお母さんを大事にして頑張るんだぞ!」と声を掛けて行く人もありました。後で母から聞いたことなのですが仕事の引き継ぎだったようです。それも一段落した後は兄弟の番です。兄から順番に呼ばれ、兄や姉は泣きながら部屋から出てくるのを見て「これはきっと怒られるのだ!」と思い、びくびくとしていた記憶があります。
 そしてとうとう小生の番となり、恐る恐る部屋に入って行くと暗に相違して、そこには柔和な父がいたのです。
 話しの切り出しは「決して人の物に手を付けてはならぬ」という事や「自分に正直に」とか「兄弟仲良く」等という事でしたので「なんだ!怒られるんじゃ無いんだ!」と胸をなで下ろしたのですが、最後に絶望的とも言える言葉が言い渡されるのです。「もう犬は飼えないから捨てる」と。
 当時の父親は絶対的な存在でしたので、父の言葉には誰も刃向かうことは出来ませんでしたが、この時ばかりは相当に激しく刃向かったと後に祖母から聞きました。しかし振り返って考えてもその記憶が小生に無いのです。記憶に残っているのは、始めて首輪を付けられ、おそらく橋の欄干であろう所に括り付けられ、寂しそうな目でじっと小生を見つめ、離れて行く小生に向かって遠吠えのような、始めて聞く鳴き声を二、三度発した事くらいです。今思うとチョロも別れを知って覚悟を決めたのではないかと思われるのです。あの目だけは、今でも鮮明に記憶に残っています。

 末期癌の宣告から四ヵ月でとうとう父は他界してしまいました。しかし、このあたりのことも小生の記憶には全く有りません。どんなに想い出そうとしても記憶は蘇りません。愛犬と父親の喪失は当時の小生にとっては相当大きな痛手となっていて、記憶の奥の方に仕舞い込まれてしまったのでしょう。

 その後大黒柱が居なくなった我が家の家計は徐々に苦しくなっていき、極貧の生活に追い込まれていきます。
 当面できることはタケノコ生活で、たくさん有ったはずの自分の服がいつの間にか無くなっていて寂しい思いをしたのを覚えています。当然兄弟や母や祖母の服も同じであったと思います。それもままならなくなってくると空いている庭の土地を貸し、最後は間貸し生活です。母や祖母は、本人達の言によるとどうも「お嬢さん」だったようで「働く」ということを知らなかったと言いますが、それでも家計は借金をしなくてはままならぬほどに苦しい状態でしたので、とうとう母が働きに出ることになったのですが、当時の女性の雇用状態は相当に厳しいものだったと、後に母から聞いたことがありました。ただ、小生はそんな極貧な生活も幼く無知であったこともありますが、嫌であったという記憶はありません。相対的に回りの家々もそれなりに貧しかった時代だったからではないでしょうか。皆、接ぎの充てた服を着て、垂らした青っ鼻を拭った袖はカピカピで、親指が突き出たズック靴で家々の路地を駆け回っていました。

 そんなことで、やむを得ず部屋を貸すことになり、その為長女と小生は三畳の一間に入ることになったのです。三畳に押し込まれた長女と小生。当時の小生は小さかったこともあり、それほど狭いとは思いませんでした。長女は当時10歳になっており、何しろ潔癖・綺麗好きで、塵一つ落ちていても目くじらを立てるような性格でしたので、長女は小生と一緒の部屋が嫌で嫌でしょうがなかったのです。小生はと言えば何しろ動物や虫が好きで、原っぱを駆け回り、木に登り、空き屋や防空壕があれば入り込み、全身どろどろになって、かき集めた虫を抱えて家に帰るのですが、殆どは家に入る前に八歳年上の長男に見つかって捨てられてしまいます。泣く泣くどうにか家に入れてもらえると、いつも祖母がやさしく慰めてくれました。しかし時として長男の目をすり抜けることができることもあったのです。そんな時は幸せ一杯で、近くの八百屋でもらってきた林檎箱(当時は林檎箱やみかん箱は全て木製でした)で作った自分専用の虫小屋に入れて、大事に押し入れに隠しておくのです。
 ある夜「ギャー!!!!~~!」というすざましい声にたたき起こされ、家中の家族が駆けつけて電灯を付けてみると、そこには顔の上にカブトムシを乗せた失神寸前の姉の姿が有りました。そうです、押し入れの虫小屋から脱走してしまったのです。それも一匹ではなく殆どの虫たちが……。さすがにこの時は家族全員から怒られ、その夜は外にある一畳くらいの物置に押し込められ泣きながら一夜を明かすことになったのですが、そんな所に幽閉されても小生は少しも怖くはありませんでしたが、虫小屋共々虫たちを全部捨てられたことが悲しくて泣き通したのです。さすがに朝になると祖母が物置から出してくれたのですが、その後、姉はカブトムシ事件を理由に小生を部屋に入れてくれなくなってしまったため、毎夜一人廊下に布団を敷き寝るはめになりました。そして何時しか三畳の部屋は姉専用になっていったのです。

 夏も真っ盛りのある日、我が家に文鳥が迷い込んできて、縁側で祖母と一緒にスイカを食べていた小生の頭に留まったのです。そっと手を出すとちょこんと指に留まり小首を傾げて小生を見つめるではありませんか!その可愛さにもう小生は有頂天でした。「どうしても飼いたい~!」とだだをこねるも「人様が飼っていて逃げてきたんだから返さなくてはならない。」と一週間あまり祖母は近くの家々に聞き回っていました。その間小生は「どうか見つかりませんように」と祈る毎日で、近くのお宮にも願掛けに通よいました。そんな願いがかなったのか飼い主はとうとう見つからず、祖母から許しが出ました。「ただし餌代はお前のお小遣いから出すんだよ」との条件付きでしたが、祖母が飼い主を捜している間にちゃくちゃくと準備をしていた小生には餌代の算段が有ったのです。
 当時小学生だった小生は学校の飼育係をしていて、毎朝授業が始まる前に兎、鶏、小鳥などの餌を近くの八百屋などに屑野菜などを無料で分けてもらいに行っていました。その中に米と雑穀を商っている店があり、時折学校帰りに手伝いもしていたのです。手伝いをすると決まって五円玉を駄賃としてもらっていたのですが、それを粟や薭と変えてもらう交渉をしていたので祖母からの許しが出るのを待つだけでした。そしてとうとうお許しが出て、晴れてチュン(もうすでに名前を付けていた文鳥)は小生のものとなったのです。可愛くて可愛くて、さすがに犬のように外に連れ出すことはできませんでしたが、家にいる時は常に一緒でした。しかし、ここから姉との第二ラウンドである「文鳥紛争」が始まるのです。

 飼う許しがでるまではお隣から借りていたカナリヤの小さな鳥かごに入れていたのですが、狭くて可愛そうと自分で鳥かごを作ることにしました。木枠は例の林檎箱、竹は自分の家の垣根から抜いたもの、ねぐらは米屋でもらった藁を自分で編んで、おおよそ六十センチ角で奥行き三十センチの大きな鳥かごがには止まり木や水浴びも有り、我ながら立派な仕上がりで見た人皆からも褒められたのですが、姉だけは違っていました。いつも「なんでこんなこ汚いものを置いておくのか」という目で見ていたのです。当然鳥は毛繕いをしますので羽が落ちます。それがどういう訳か姉の部屋に舞い込むのです。そんな時一片の羽にでも「また羽が有る!早く取ってよ!」と怒鳴ります。怒鳴られるのが嫌なので姉が帰る前に部屋を点検しておくと「勝手に人の部屋に入るな!」。はては「こんな隙間が有る籠だから羽が飛ぶんでしょ!新聞紙で回りを囲んでおけば良いでしょ!」と鬼のような言いぐさで怒鳴り散らします。これにはさすがに家族も小生の味方をしてくれましたが、我が家に来て五年目にチュンが死ぬまで抗争は続くのです。
 そんな姉も今では犬を飼い、一緒のベットで寝ています。時々姉の家を訪れ、笑い話で「あんな姉がね~」と言うと「女にはそんな時期もあるのよ」と言い訳をしますが、自分の飼い犬の毛以外は今でも潔癖性の片鱗は残っているようです。

 姉から汚い、臭い、無精、乱雑と、いつも罵られ続けていましたので、それが自分の本性だと思っていました。
 後年、小生は二十二歳でアパートでの一人暮らしをすることになったのですが、始めて友人が遊びに来た時に「お前!女ができたんだろう!」と言われたことが有りました。否定をするも「こんなに部屋が片付いているのはきっと女がいるに違いない」と言い張ります。後日友人の部屋に遊びに行くと、足の踏み場もないくらい物が乱雑の置いてあり、小さな流しには洗っていない皿や鍋などが山のように積み重なっているのです。これは他の友人の部屋も大同小異だったのです。
 極貧で狭い所で生活していかなくてはならい状況と、潔癖性で口うるさい姉の性格に、いつしか小生は教育されてしまっていたのです。一人暮らしを始めて暫くして、ようやく出来た彼女を部屋に招いた時も、早々に帰ってしまったことがあり、後で聞くと「あの部屋の綺麗さは他に彼女がいるか、潔癖性の母親がいるマザコンと思った」とのことでした。その彼女とは疑惑を解消して、しばらく付き合いを続けたのですが「貴男に私は必要無いでしょ」と言われ振られてしまいました。今振り返って考えると、どうも姉の潔癖性が乗り移った小生に恐れをなしたようではないかと思われます。
 今の妻は結婚当初は、片付けるのが下手でしたので年中文句を言っていましたが、徐々に片付けがうまくなり、小生は多少の煩雑さにも気を止めなくなって次第に中庸になってきました。
 そして今、小生の部屋は集めた小物や趣味の品々、拾ってきた物で溢れかえっていて、家内から「少しは整理しなさいよ!」と文句を言われている毎日なのです。