第19回 すばらしき漆絵と箱根行 |
小生、元箱根にリゾートマンションの一室を持っています。人にこの話しをすると「箱根に別荘なんてすごいね!」と言われますが、実は大したものではありません。すでに築三十数年を経過して、外観もみすぼらしくなってきております。 家内の友人が箱根に遊びに行き、成川美術館の庭から見て「汚い建物のが有るけどまさかあれではないでしょうね」と言われたことも有ったくらいなのです。初めは兄が購入して会社の保養施設として利用しておりましたので、小生の家族も年に二、三回くらいは利用しておりました。しかしながら保養に利用する社員もいつしか無くなり、行くのは小生の家族だけとなってしまって独占状態だったのです。そこで兄の会社で社員に売却を即したところ誰も手を挙げる者はおりませんでした。 場所は成川美術館のすぐ上の「逆さ富士地区」という所にあり、眼下には芦ノ湖、正面には富士が眺められ、右には駒ヶ岳、左には三国山が眺望でき、夜になると箱根神社の湖水に立つ鳥居がライトアップされて、まるで絵はがきに出てくる典型的な箱根の風景が部屋から望めるところなのです。閑を見計らってですが、そんな風景をすでに三十年以上も眺めて好きな音楽を聴いたり、本を読んだりしていましたので、小生はかなりの愛着をもっていたのです。 売却の話しを聞いた時は「残念だけどしょうがない」と思っていましたが、購入希望者がなかなか現れずにいつしかお鉢が小生に回ってきました。当初は「別荘を買うなんてとんでも無い」と断っていたのですが、小生の愛着心も相まって気が付けば価格交渉に入ってしまっていたのです。 そんな訳で小生の車よりも安い値で手に入れたのは良いのですが、そこでふと現実に返って見ると「管理費」を払わなくてはならないではありませんか!それに加えて修繕積立金や電機代、水道代などがかかり、月額は夫婦二人で一泊二日の温泉旅行ができる金額になってしまうのです。また今まで兄の会社がやっていた部屋のメンテナンスも全て自分がやらなくてはならなくなり、頻繁に行かなくてはならない状態になってしまったのですが、そこで一番喜んでいたのは、我が家のワン公です。思い切って走り回れる所が有ることもその理由なのですが、なんと言っても小生と一緒に夜寝ることができるからです。普段は自分のサークルで一人(一匹)で寝ているのですが、箱根では時折顔を舐めながら小生の腕枕で朝までぐっすりと寝るのです。これが何とも好きなようで、「もう寝ようか」と言うと真っ先にベッドに飛んでいくのです。この時ばかりは、まるで愛人のように仲良く寝るのです。 今年の五月の連休は二日と三日に行ってきました。いつもの事なのですが道が混雑していることを考えて、一日の夜11時頃に東京を出て、ゆっくりと走り、夜中の2時頃に着きました。別荘とは何時に着こうが一向に構わないのが何よりのメリットなのです。この時も連休中にも関わらず渋滞に巻き込まれずにすんなりと走ることができました。翌日は昼頃まで寝ていて、その後は湖畔に昼食を食べにでかけがてらの散策です。 漆を始めてから並木恒延画伯のお名前は時折聞き及んでいましたが、その作品は未だ拝見したことが無かったのです。始めて拝見した漆絵は衝撃でした。漆黒を背景に蒔絵や研ぎ出しで描いた作品の、何と美しことか! 「うるし七彩/並木恒延展」は二階で催されていました。最初に目に付いた展示室には12センチ角くらいの漆黒のマチエールに柚や桔梗などの植物が描かれた作品が展示されいました。その美しさに感銘を受けながらも、正直どこか心の隅に「これだったら挑戦してみようかな?できそうだよなぁ」的な軽い気持ちがありました。しかし、次の展示室に入るやいなや、その作品の迫力に目が釘付けとなり、小生は動けなくなってしまったのです。そこには100号を超える漆黒のマチエールに鮑貝や白蝶貝、鶉の殻などの研ぎ出しや金や銀の蒔絵で描かれた大作が展示されていたのです。繊細で精緻、漆黒に大胆な構図。これほどまでに漆黒が表現されている作品に今まで一度も出会ったことはありませんでした。 小生仕事がら素描程度の絵を描き、絵画を見ることが好きなので事ある毎に美術館に出かけます。しかし今まで「欲しい」と思ったことは殆ど有りませんでしたが、この漆絵ばかりは「家を売ってでも欲しい」と思ったのです。 実は以前にも何度か「動けなくなる」ほどの衝撃を受けたことがありました。その一つが奈良聖林寺の十一面観音を始めて観た三十年も前のことでした。 和辻哲郎氏が『古寺巡礼』の中で認めておられる一部分を転記させていただくと と有りますが、まさにその通りで、神々しくも有りながら親近感を持て、気高くも有りながら近寄りがたさを感じさせない、そんなお姿の観音様なのです。初めの二時間くらいは正面に正座して、ただ見上げることしか出来ませんでした。あまりに小生の帰るのが遅いので心配して小僧さんが何度か見にこられ「大丈夫ですか?」と声をかけていただきました。その時は小生のことを心配されたのだと思っていたのですが、本当は観音様を心配して見にこられたのだと、後になってようやく気づいた次第でした。 今はガラスで仕切られていて十一面観音立像を直接見ることは出来ませんし、後ろに回って見る事も出来ませんが、当時は仕切りも有りませんでしたので、ようやく動けるようになってからは、何度も回りを廻り些細を拝観しているうちになんと四時間もの時がたっていました。 話しは漆絵の事に戻りますが、箱根からの帰りの車内では、小生の頭の中は漆絵の事で一杯で、家内が話しかけても上の空で、ほとんどしゃべらなかったと言います。そしてとうとう並木恒延画伯の漆絵に感化されてしまった自分に気が付いたのです。港北サービスエリアも過ぎた頃、ようやく小生は我に返ったように話し出し、感化されてしまったことを家内に話すと「いくらでも挑戦してみれば!ただし家は絶対に売らないで!家を売っちゃったらどこに飾るつもりなのよ」との言。ごもっとも、確かにその通りです。 今、漆絵制作の準備をしています。構図は何とか二ヶ月ほどでまとまりました。そしてキャンバスの制作ですが、これはとりあえず十二センチ角で一センチ厚の欅板を十枚用意しました。それに拭き漆を施した後に目摺り錆漆を施して平滑を取って布着せをしたものと布を着せないものを5枚づつ作り終わった所です。ここまでの作業で、この平滑を出すのが以外と難しいことに気づきました。椀などの曲線物でも塗りに斑があるとすぐに分かってしまいますが、平面となるとさらに大変です。少し斜めにしてみるとすぐに平滑ではない所が分かってしまいますので、歪みのある箇所は再度錆漆を施して平滑を取り直さなくてはなりません。今まで2枚の板が反ってしまい、殆ど最初からの作業のし直しでした。「たかが十二センチ角のキャンバス作りでこれほど難儀するのだから、100号以上のものを作っておられる並木恒延画伯はいったいどのような方法を取られておられるのか一度でも良いから見てみたい」と思いながらの作業で、何とか十枚の平滑な板が完成し、ようやく一回目の呂色を塗り始めたところです。 はてさてうまく思い描いた構図ができるのやらどうやら。何度か失敗を繰り返さなくてはなかなか覚えない小生のことですから二、三回の失敗は覚悟していますので、とりあえず出来上がるのは来年になると思います。問題はそれが人にお見せできる仕上がりになっているかどうかなのですが、それはともかくとして、出来上がりましたらこのご報告させていただきます。 |