第17回 最速はあくまで結果的・続き

 小生、科学に関することが根っから好きで、読書ではSF小説(サイエンスフィクション)にのめり込んでいます。一方では小皿や古家具などが大好きで、古物屋を開いたこともありました。
 SF小説は最新の科学理論を駆使して書き込まれたものが好きですので、必然的に科学誌なども読んで最新のバックグラウンドである科学知識の大雑把な概念くらいは頭に入れておかなくてはなりません。
 古物の世界については、古皿一つとってもその時代背景や成り立ちなどの歴史が有りますので興味が湧いてきますので調べます。今では「漆」にも手を染めていますので、その奥行きを知るだけでも多くの工芸の本や資料を読むのに時間がかかります。
 そんな小生がものすごく気になったのが前回認めました「なぜ一番でなくてはならないのか?」と言う事業仕分けでのスーパーコンピュータ開発についての蓮舫氏の発言と、その言葉に対して「蓮舫氏は文系だから・・・」と批評された方の言でした。
 蓮舫氏の発言については前回の第十五回で反論しましたので、今回は「文系だから・・・」との発言をなされたA氏に反論しようと思います。

 この方、当然ご自分を「理科系」と思っている方のようですね。なぜならば文化系の何たるかを知っている方の場合も、理系と文系の双方をご存知の方も「文系だから・・・」と切って捨てるようなことを言わない(言えない)からです。もしかして、この方、体育会系?=体育会系が悪いと言っているのではありませんよ!(ごめんなさい、これは三段論法でした)
 「それじゃぁ、これを書いているお前は何系なんだ?」との声が聞こえてきそうなので予めお答えしておきますが、小生「何でも浅く系」といつも自称しています。何にでも興味を持ち、何にでも顔を突っ込み、挙げ句の果ては収集が付かなくなって尻つぼみ・・・・。

 確かに蓮舫氏は青山学院大学法学部公法学科を卒業されておりますから、文系と言えなくもないのですが、そんな単純な二元論的な区分けで人の知を部類して良いのでしょうか?また、出来るのでしょうか?どうも蓮舫氏の「何で二番ではいけないのか?」との発言と「蓮舫氏は文系だから・・・」と批評されたA氏のお二人には同罪的な無知が存在しているように思えてならないのです。A、B、AB、Oの四つの血液型で日本人の性格を分けてしまう分類法と同じと思えてならないのです。人の「知」とはそんなに単純なものでは無いのですよ。

 このA氏の「蓮舫氏は文系だから・・・」との言葉は「文系だからコンピュータなどの科学開発や研究の必要性が分かっていない」と解釈できます。要するに「文系は科学的知識に乏しい」と。果たして世の文系の方はそうなのでしょうか? もしそのような意味合いでの発言でしたらとんでも無いことです。
 確かに理系と文系(小生このような区分けは好まないのですが・・・)には若干の知識の偏重が存在することも事実だと思いますが、政治家や評論家を標榜される方であれば、その偏重度合いは一般市民より遥かに少ないはずです。また、少なくなくてはならないのです。なぜならば一般市民が接する日常の生活のほとんどの事象において、理系とか文系という間は無くなり、意識せずに科学や文化に接しているからなのです。そんな現代社会を導き、シビリアンの先頭に立つ政治家や評論家は理系とか文系等とか言っている立場では無いはずなのです。

 社会全般を把握して方向性を示し、導くための指針を示すのが政治家であり、その方向性に苦言を示す、いわゆるシビリアンコントロール的な役割を担うのが評論家や批評家と言われる方々なのではないでしょうか。
 しかし、評論家や批評家と言われる方々に「市民の代表者」という概念をお持ちの方が殆どお見受けせず「朝まで討論会」などでは、単に自分の言いたい事を正論のごとくに言っているに過ぎないのですが・・・。
 もっとも選挙で選ばれた訳もなく責務は無いに等しいので、何を言っても構わないのですが、テレビなどの公共媒体での発言ということにおいては、少なくとも「稚拙」な発言だけは考慮なされた方が良いのではないでしょうか。
 充分に熟考なされたご意見であれば、かなり過激と思われる発言でも聞くに値しますが、単なる思いつきや稚拙な発言には失笑せざるを得ません。ですから政治家も評論家も、発言なされるのであればしっかりとご勉強して頂きたく思うのです。そして一度ご自分で発せられたご意見には責任を持たれる必要が有ると自覚して頂きたいのです。

 前回と今回では「公共の場での発言」というものについて「噛みつき」ましたが、政治家は政治家なりに、批評家は批評家なりの知性のある発言をすべきと小生は言いたいのです。前記と重複しますが、当然それぞれの方が色々なご意見をお持ちなのですから、その旨の発言をなされることはご自由で、どのようなご意見であれ自由に発言すべきなのですが、最近の報道や解説、批評を聞いていると何とも稚拙なことを平気で申される方がおられるのが気になって仕方がありません。
 時に過激な発言をなされて非難を浴びる方も居られますが、それはその方のご意見なのですからご自由なのです。それを聞いた視聴者が単に判断すれば良いことなのです。ここで小生が言いたいのは「過激」と「稚拙」は全く違うのです。「過激な発言」はマスコミもすぐに取り上げますので世間の反感を買いますが「稚拙」な意見は意外と見過ごされてしまいます。ある意味蓮舫氏の発言は「過激」であったかも知れません。ですから各方面からかなり叩かれました。一方「文系だから・・・」との発言には、論理をもって反論された方をお見受けしていません。それが残念でしかたがありませんでしたので、敢えて噛みついた次第なのです。
 
 柳沢伯夫元厚生労働相の「女性は生む機械」発言では、この方の社会性や品性ひいては人間性にも疑問を抱かざるを得ないものでした。さすがにこれにはマスコミも反応し非難が集中しましたので「真意が伝わっていない」などという相変わらずの分からぬ言い訳。発言も言い訳も、あまりにも稚拙で「貴方はどのような教育を受けてきたのですか?」と聞いてみたくなります。聞くまでもなくインターネットで調べればすぐに分かるのですが、調べる気にもなりません。(とは言いながらも一応は調べてみました)
 このように政治家や評論家などが失言した時「マスコミが言葉尻をとらえて歪曲した」とか「真意が伝わっていない」と言うような言い訳をします。時には確かにマスコミの報道姿勢に問題が有る場合も有りますが、殆どの場合、報道されたような言い方をされておられるのです。評論家などのいわゆる文化人(文化人って不思議な言い方ですよね)や政治家が公式な場やメディアの前で発言する時には、ちゃんと伝わる言い方をすべきですし、真意を簡素な言葉で正確に伝えるのが政治家や評論家の仕事の一つなのではないでしょうか。それが「知性」というものなのです。

 人は生を受けると同時に「知への探求」が始まります。これは人類の誕生から受け継がれた「業」に他なりません。誕生から直ぐに赤子はより安心を、より快適を、を求めて泣きます。ちょっとお尻が汚れれば泣き、お腹が空いたら泣き、どかが痛ければ火の付いたように泣きます。生後半年も経てば回りのものに興味を示し、手の届く物は何でも口に入れます。それは知への欲求からくる衝動で、これがあるからこそ知能が発達して行くのです。そして小学生から中学生へと進むにつれて集団生活の中からモラルを学び、自己研鑽を経て知の高峰を目指すために自身の道を歩んで行きます。本来なら各方面でこの「知」を極めた人が政治家や評論家になる資格があるものだと思いますが、どうやらこれは小生の幻想のようですね。
 
 知とモラルに言及しましたので、ついでにもう一言苦言を。
 小生、モラルと知性は同等の存在と思っています。高いモラルを持とうとすると必然的に高い知性が必要になってくるからです。なぜこんな事を認めようとしたのかと言うと、最近五十歳代から七十歳代の人にあまりにもモラルが低いのではないかと思われる人を見受けるからです。それも一見ご立派な紳士然とした方に。
 実は先般銀行に行き、用事を済ませて帰ろうとした時に、小生の自転車の籠に何食わぬ顔で平然とビニール袋を入れて行った方がおられました。早々に袋を見るとそれはゴミなのです。追いかけて問い質したところ「邪魔だったから」との何とも度し難い言い訳。「まあ道にポイ捨てするよりは良いか!」と何とか自分の怒りを諫めましたが、唖然とする出来事でした。
 これだけではありません。飼い犬の散歩の時に糞の始末をしない人。子供の前で平気で信号無視をする人。歩きタバコをしてポイ捨てする人。病院の中で辺り構わず形態電話をかけている人などなど。これらはみな六十歳前後の人の行為として見かけたものです。このような人を見かけると同世代の小生としては恥ずかしくも寂しい思いにかられます。日本の高度成長期を担ってきて、今人間としての熟成期を迎えている年代であるはずなのに、どこかにモラルを置き忘れて来てしまったのでしょうか。こんな大人が多くなってきてしまったら、子供は誰が導けば良いのかと暗澹たる思いに駆られる今日この頃なのです。
 
 さて、前回と今回では少し怒ってみましたが、「怒り」はとりあえず今回で終わりです。小生、本態性高血圧と言う持病を持っていますので怒ると血圧が上がってしまいますし、怒れば怒るほど自分が惨めになって来るからです。ですから次回からはもっと楽しい話題を認めることにしようと思っています。