第14回 技を身に付けること

 近所の遊び友達が刀の鞘師の息子であったこともあり、小学生の頃から本物の日本刀を見せて頂く機会が多々ありました。
 刀の鞘を作る時、いきなり鞘から作ることはありません。まず刀身と寸分違わぬ模擬刀身を木で作り、それに合わせて鞘の内面を彫り込んでいきます。度々友達の家に遊びに行き、工房の片隅までは入れてくれましたので、ちょこんと座り、決して持たせてはくれませんでしたが、日本刀や鞘を作るための鉋や鑿、槍鉋などの、良く手入れされた道具をじっくりと眺めていることだけは許してくれたのです。そんな事もあって、何となくでは有りますが刃物の美しさと危うさのようなものを小学生の頃より感じ取っていました。そして後年、刃物に魅入られてくるのです。

 話しは前後しますが、小生の父親は機械の設計技師で、5歳の時に早々と他界してしまいましたが、どういう訳か八歳年上の長男にでは無く、次男の小生に遺言で残してくれたものがあります。それは革製の鞄に入ったドイツ製の設計道具一式でした。中にはコンパスやデバイダー、烏口などと一緒に、大小2本の“肥後の守”(ひごのかみ)が入っていました。のちに小生がグラフィックデザイナーの道に進む際にこの設計道具が大きな武器となるのです。

 父親より残された道具で最初に手にした道具は、幼少の小生の手に合っていた小ぶりの方の肥後の守で、そこいらにある木や竹を手当たり次第に削り、意味不明のものを作っているのが好きでした。そして自分の手も刻んでしまうこともしばしばありました。そんなことを繰り返し、痛い思いをしながら刃物の使い方を徐々に覚えて行ったのです。ですから小学校に入学するころには鉛筆を6方向から6回刃をを入れ、芯先を調整するだけで綺麗に削れるようになっていたのです。回りは皆、剃刀状の刃をブリキで包んだボンナイフ(今でもあるのですかね?これは使い捨てです)というものを使っていました。小生もボンナイフが欲しかったのですが、極貧の家庭ゆえ買ってももらえず、我慢して肥後の守を使っていたのですが、実はこれが皆の羨望の的だったと、後年の同窓会で同級生から知らされたのです。

 ある時、この肥後の守を前述の鞘師のおじさんにお見せすることがあり「これは日本刀と同じ作り方をしたものすごく良い刃だから、ちゃんと研がなくてはならない」と言われ、研いでいただいたことがありました。それまでは切れなくなるとコンクリートや石で大雑把に研いでいたのですが、鞘師のおじさんに研いでいただいた肥後の守は刃紋までも浮き上がって、見違えるようになったのです。その後、何度目かに研ぎをお頼みした時「これからは自分で研いでみるか?」「これを上げるから何度失敗してでも良いから自分で研げるようにしなさい」と言われ、荒研、中研、仕上研を渡されました。その時の喜びは今でも鮮明に覚えています。五分の一くらいまですり減っているとはいえ、おそらく買えば相当に高価な砥石だったと思いますが、その価値が分かったのは二十歳も過ぎた頃でした。しかし、その時は、何しろ鞘師のおじさんが使ってるのと同じものを使えるということだけで、嬉しくてたまらなかったのです。

 それからは毎日毎日が研ぎの日々で、台所に有った菜切り包丁や出刃包丁、鎌などの家に有るあらゆる刃物で練習し、切れなくしてしまって母親にえらく叱られたこともありました。
 時々自分ではうまく研げたと思ったものを鞘師のおじさんに見せるのですが、そこは職人「これでは刃物とは言えない」「まだまだ甘い」と厳しく突っ返されます。そんなやりとりはまるで師匠と弟子のようなものでしたが、それが楽しくてたまりませんでした。母親からは「そんなこと覚えてどうするの?小学生のやること?買い物に行ってきなさい!」などとしばしば文句を言われましたが、祖母はそれを見てにこにこしながら「何でも技術は身に付けておいて損はないよ」言っていました。実はのちにこれが家計を助けることになるのです。

 初段でも述べましたが、職人気質で貯蓄という概念が無かった父親が早く他界してしまったため、我が家は極貧に陥りました。住まいは父が買ったものが有りましたが、二、三ヵ月後には食うにも困る状態だったのです。当時は近所の家も皆それなりに貧しかったのですが、我が家はその中でも群を抜いていたのです。やむなく母は住み込みで働きに出て、毎月月末に給料を持って帰り、2日間だけ家に居るような状態でしたので、小生は祖母に育てられました。
 それでも母の給料だけでは足りず、兄や姉は学校が終わるとアルバイトの毎日でした。そんな中、小生は幼いためアルバイトもできませんでしたので、兄から仰せつかったのは「食える物と薪になるものを探して来い」と言う事でした。貧困のためガスが止められていましたので飯炊きや調理は薪でするしかなかったのです。当時の小生の家が有ったのは池袋から一キロくらいの、現在の上池袋一丁目でしたが、原っぱや畑なども有ったのです。ですから食える野草を探すのに苦労はしませんでした。困るのは冬です。薪にする材木の欠片などは何とか探し出せるのですが、なにしろ野草が無くなるからです。そんな時は八百屋や魚屋などに行って「兎にあげるからこれちょうだい」と野菜屑などをもらっていたのです。

 そんな折、小生が研ぎに夢中になっていることを知った隣のばあさんから「包丁を研いで」と頼まれました。それが「研ぎ屋に頼んだより切れるわ!」と大変喜ばれ、少しばかりですがお金を頂いたのです。これが始めて頂戴した労賃だったのです。そしてこの噂が徐々に近所に広まって行き評判になって行ったのです。
 実は当時、研ぎ屋という商売が有り、月に一、二回ほど包丁一本百円くらいで各家を回り研いでいたのです。小生、はたと気づきました。「研ぎ屋をやろう」と。そうです。事業を始めようとしたのです。早速その研ぎ屋を真似して拾ってきた桶に水と砥石を入れ、少し遠いところまで足を伸ばしました。
 当初は小さな子供が何をやっているんだと胡散臭く見られたのですが、評判は広がり値段も一本四十円と安かったため小生が歩く所の家々は全て小生のお客様となってしまったのです。そして研ぎ屋との鉢合わせです。「俺の商売の邪魔をするんじゃねえ!」とひっぱたかれたことも有ったのですが、もうそのころは姉のアルバイト代を上回るほどの収入になっており、八百円近くも家に入れることができるようになていたため、止める気などはさらさら有りませんでした。それからはできるだけ研ぎ屋と鉢合わせをしないように気をつけて回っているうちに、いつしかその研ぎ屋も来なくなっていました。

 当時は小生のようにやむを得ずですが自分の仕事を持っていた小学生がかなりいました。その代表的なのが戦争孤児で、池袋の駅近くにいたシューシャインボーイ、いわゆる「靴磨き」です。そんな少年が、駅近辺を縄張りとしていたヤクザに所場代を払わなくて、袋だたきに遭っていたのを見受けたこともありました。幸い小生は繁華街には近づかず、できるだけ警察官の多い民家が密集している所(交番の周辺がベスト)ばかりを回っていましたので、ヤクザに出会うこともなく所場代などを払わなくて済みましたが、当時は、小生のような貧乏人はできるだけ頭を働かせて、逞しく生きていかなくてはならない時代だったのです。そんな少年時代は、極貧ではありましたが、決して辛いと思ったことはありませんせんでした。裕福な友人への多少の羨望はありましたが、三人の兄弟と母と祖母の五人で結構楽しく生きていたのです。

 そんな極貧の生活も、兄が夜間高校に行って働き出し、母の仕事も安定していって、日本経済の成長とも相まって少しづつ楽になってきました。中学に入る頃には家計も研ぎ屋の仕事での収入に依存することも無くなり止めてしまい、いつしか研ぎのことも、鞘師のおじさんのことも忘れて行ってしまったのです。
 学業は下から数えると両手で済むくらいままなりませんでしたが、先生が美人であったこともあり中学時代は化学クラブに填り、高校では山に填りました。そして高校を卒業と同時に就職し、そこで本格的な登山をしている先輩に出会い冬山を覚えることになるのです。高校時代の小生の山は、ただ一人体力に任せてかけずり回っていただけなのですが冬山ともなると体力だけではいかんともしがたく、完璧な装備、天気図の読み方、地図の見方、パーティーの組み方などの高度な知識が必要となります。中でも装備が重要で、そこで始めてハンターナイフを手にすることになったのです。

 登山ではナイフはそれほど頻繁に使う道具ではありませんが、それでも使えば次第に刃は鈍ってきます。小生のハンターナイフもザイルをスッパリと切れない状態になってきましたので、仕舞い込んであった昔の砥石を引っ張り出して研いで見たところ、購入した時より切れるようになりました。これが先輩やパーティーに知れ渡り「彼奴の研いだナイフはピカイチだ」との評判が立ってきて、いつしか他のパーティーからもナイフの研ぎを頼まれるようになってきてしまいましたので、下山した帰りには20本くらいのナイフや鉈を持ち帰ることもしばしばでした。ある時、警察官が近寄ってきて「ちょっと来てくれない?」と交番に連れていかれ、「これ、どこで盗んできたの?」と問い詰められたことがありました。駅で一つづつ袋から出しながら刃の状態を確かめていたのですがら不審がられても仕方がありません。
 今とは違って腰に鉈などを下げていても警官に尋問されることも無かった時代ですが、さすがに20本あまりの刃物を下山直後の汚い格好で持っている奴はそうそういませんので、疑われるもの当たり前だったのです。その時は学生証をお見せして子細を話しましたら釈放していただけましたが、今のこのような時代であったら、少なくとも警察署までは連れていかれたのでしょうね。

 耳かきから始め、現在では主に黒檀などの硬木や煤竹を用いて色々な小細工をしていますので、小生の工房には鉋、槍鉋、鑿、彫刻刀、切出、鉈などが50本近く有ります。また小生多少ですが料理を嗜みますので、我が家には出刃四丁、刺身包丁五丁、骨切包丁二丁、菜切包丁二丁、洋包丁五丁、ペティーナイフ二丁などがありますが、その全を自分で研ぎます。少しでも鈍った刃物は許せないのです。ですから順番に使って行き、少しでも切れ味が悪くなると換えて使い、溜まると一日かけて全てを研ぎ直します。研いだばかりの切出などで木っ端を削っていると、何とも心地よく、その感覚が堪えられません。時には姉や兄の家の包丁の研ぎも頼まれ、重宝されていますが、切れ味の良さに「怖いようだ」と言われます。
 以前さるお方から「日本刀も研ぐのか?」と問われましたが、おそらく刃物の研ぎの中で日本刀の研ぎは最高峰の技ではないかと思いますし、研ぐための最高峰の砥石も持っておりませんので、こればかりはお断りするしかありません。多少の自信はありますが小生の研ぎは所詮素人に毛が生えたようなもので、9寸の刺身用料理包丁が精一杯の技なのです。

 小生「刃物フェチ」です。刃物屋の前を通りかかるとなかなか離れることができません。剣鉈や竹鉈、肥後の守、彫刻刀など、もう有るのでこれ以上いらないにも関わらず見入ってしまいます。刀剣店などは絶対に通り過ぎることはできません。そして「研ぎフェチ」の小生は他人の持っているものでも刃がなまくらであったり錆の浮いている刃物を見ると研ぎたくてしかたなくなってしまいます。
 決して使う訳ではありませんが、いずれは日本刀を手に入れたいと思っているのですが、魅入られているのが「妖刀村正」なので、おそらく一生手にすることは無いでしょう。