第12回 我がへそ曲がり考 |
最近ふと気づいたことがあります。それはメールなども含めて、お付き合いしている方が多くなって来たということです。 小生の若かりし頃はへそ曲がり、意地っ張り、屁理屈屋などなど色々な濡れ衣(今思うと濡れ衣ではなかったのですが)を着せられていました。まあ、人と一緒に何かをすることが嫌いでしたので、中学・高校の修学旅行は一切拒否で不参加でした。学校には柔道部も有ったのですが、倶楽部活動という中の師弟関係や上下関係というものが嫌で、一人講道館で練習に励んだこともありました。何しろ当時の友人の四人以上との交友を嫌っていたのです。だからと言ってその四人の友人と気が合ったのかと言えばそうでは無く「何処かに行こう」と集まりはするのですが、徐々に自分の主張を押し通そうとして行きますので、最後はいつもばらばらになってしまう状態でした。 人が右向きゃ左向く。前に進めば自分は後がる。人が道理を言えば屁理屈で返す。歩く道は必ず裏道で、二人以上の人が並んでいる店はパスします。ですから家族と出かけた時の食事の時は大変だったと今でも言われます。「ここは不味そうだ」「ここは店構えが良くない」「ここは並んでいるからだめ」などとなかなか店を決めませんので、家族は空腹を抱えながら小生が入る店を決めるまでトボトボと着いてこなくてはならないのです。そのうちに「お父さんは一人でいつまでも探していなよ!私たちはここで食べるから」と言われるのですが、小生は「だったら自分たちの食い扶持は自分で払えよ!」と言うものですから仕方なく着いてくるしか無かったのです。 その性格は今でも多少残っていて、盆暮れや連休に出かけることは一切ありません。行楽シーズンに観光地に出かける等と言うことは以ての外ですので、我が子の幼少の頃には旅行に行く時などは学校を休ませて行くような次第で、遊園地に連れて行った時などは「お父さんと来るといつも空いていてすぐに乗れるね!」などと喜ばれたこともありました。 小生十五歳のころから山登りを始めました。当時は今のようにいろいろな遊びがありませんでしたし、極貧の家に育った小生には遊ぶ金も有りませんでした。たまたま近所の知り合いの植木屋さんが奥多摩に仕事先を持っており、そこに行く時の車に便乗させて頂いていたのです。当然行きには交通費はかかりませんが荷下ろしなどを手伝わなくてはなりません。しかし帰りの電車賃はアルバイト代として頂戴したので都合が良かったのです。その時の小生の姿はニッカボッカに高下駄という出で立ちでした。奥多摩湖畔の鴨沢から入り、七ツ石山から雲取山、時として笠取山を経て甲武信ヶ岳までにも一人天狗のように駆け回っていました。 そんな山行を重ねていると、時々十人くらいの集団に出会います。その殆どが大学の山岳部で、高価そうな登山靴に立派なリュックなどの装備をしていて、中の五、六人は二十キロから三十キロ位と思われる荷を背負っているのですが、残りの人は何の荷も背負っておりません。そしてその手には木刀が有ることもありました。いわゆる「しごき」です。 ちゃんと働いていない時期、いわゆるぷー太郎の時期には歩荷(“ぼっか”と言い山小屋などに荷を運ぶ仕事です)をしていたことがありました。現在のようにヘリコプターで荷揚げをするなどと言うことは有りませんでしたので、人手が頼りの時代でした。これは良い仕事でした。一ヶ月も働くと4ヶ月から半年くらいは暮らしていける給金を貰えたのです。そして次の荷揚げまでの間、周りの山を自由に登り小屋では無料で飯を食えるのですから。それもお金を頂戴して。主に米や野菜、時にはお菓子や石油、たばこなども運びました。帰り道には、足を挫いて歩けない人を背負って降りたこともありました。何よりこの仕事が小生に合っていたのは、好きな時に好きなだけ仕事ができるということです。時として「人は何のために生きるのか」などと、えせ哲学に悩みながらも自由気儘に孤独を楽しみ、悪質登山者に怒り、遭難者の捜索にも加わったこともありました。もっとも冬季は山小屋も閉鎖されますので、歩荷の仕事は無くなりますが、閉鎖前までに何度か荷揚げをしておくと、かつかつではありますが、翌年の開山まで食っていくことができるのです。 こんな小生でも、若かりし頃には人並みに太宰治に傾注し、角棒を手に安保闘争に加わり、体制に刃向かったったこともありました。当然セクト等には参加せず、個人として闘争していたのですが、ある時「どこのセクトだ?」と問われ「セクトは関係無い」と言ったところ警察のスパイと間違われ、追い回されたこともありました。しかし尻の青かった青春時代の反体制思想も、大学闘争のセクト分裂を横目に見ながら、徐々に冷めていき「我思う故に我有り」という心境に至り、個体幻想の世界に舞い戻ってきたのは二十五歳を前にしたころでした。 都会生活が嫌な訳ではありません。人の多い所が嫌いなのと人との関わりがいやだったのです。 そして結婚。家内は東京を離れることを嫌がりましたので、東京で生活基盤を築かなくてはなりませんでした。当時の小生の給料は少なくなく、当然共働きでした。そして独立です。当時の小生の仕事は打ち合わせなどでいきなり呼び出されますので、東京にいないと仕事がままなりませんでした。今では仕事の依頼から原稿の入稿、校正も含めて殆どメールで完了しますので、たとえ小生が北海道にいても難なく今の仕事をこなせることができます。しかし、二十年くらい前はネット環境も今ほど行き渡っていませんでしたので、事ある毎に出かけて行かなくてはなりませんでした。 すでに二十年前には小生の仕事は手作業からコンピュータへと移り変わっていたのですが、お客様の方が対応して頂いていなかったのです。ついこの前も友人から、からかい半分に「そろそろお前の大好きな田舎での一人暮らしができるんじゃないの?」と言われましたが、今はその気が全くありません。なぜなら、孫が可愛いからです。東京都を離れてしまうと当然孫に会う機会が少なくなってしまいます。これには耐えられません。こんな一人よがりで自由気儘に生きて来たジジイでも孫の可愛さには無条件に完敗です。どんなに我が儘でへそ曲がりであっても、一人前に孫は可愛いものなのです。 |