第10回 麗らかな上州行

 卯月も清明を迎えた四月初旬の赤城南面の山里は麗らかでした。

 今回は、友人から「氷室蔵を解体するので見て欲しい」との連絡が入り、出かけた旅でした。
 その氷室は渋川市の国道353号から少し脇道に入った所にありました。一階は半地下のため低い土蔵造り、その上には木造の民家風の家があり、当初は「これが蔵?」と思わせる奇妙な造りでしたが、中に入って驚きです。半地下の部分の内面はまるで城の石垣のようにしっかりとした造りになっていました。
 昭和初期頃までは、榛名の湧き水を使って作った天然氷を貯蔵していたらしいのですが、昭和も十年ころになると天然氷は手間がかかるために止めてしまい、氷室蔵もそれからは使っていないとのこと、その後は倉庫としていろいろな不要なものを投げ込んでいたようで、持ち主も中に何が入っているのか分からないと言うのです。言葉通り、中は雑多なものが積み重なり、埃だらけなのですが小生このようなものを見ると心が疼くのです。早々に頭には手ぬぐいを巻き、目にはゴーグル、防塵マスク、つなぎに軍手、そして作業靴と完全装備でいざ出陣です。

 幼少の頃の、防空壕の跡や物置などがあれば一人潜り込んで「宝探し」と称し、未知の世界に入り込む何とも言われぬあの好奇心が疼いてくるのです。別に本当に「お宝」が無くても良いのです。懐中電灯を片手に(幼少時代は蝋燭でした)埃まみれになって一日中でも引っ掻き回しているのが今でも大好きなのです。幼少の頃にいたずらをして親に叱られ、押し入れに押し込まれたのはもの凄く怖かったのですが、自分から入って行くのは好奇心が勝ったのか、全く怖く無かったのです。
 今回は何だかんだと六時間ほど探索をしていましたが、いつまでも蔵から出てこない小生を家主が見に来て「まだやっているの?好きだね!」と不思議がられてしまいました。
 家主の「小判でも出てくれば声をかけてもらいたいけど、あとは何でも好きなだけ持って行って良いよ」とのお言葉を頂いての探索でしたが、今回も案の定「お宝」は出てきませんでした。しかし昭和十七年製の精工舎の掛け時計(パーツはばらばら)や箱枕、幅三十五センチ、長さ百八十センチの和裁縫台、猫炬燵などが出てきましたので頂戴してきました。

 当初は氷室蔵の探索だけのつもりで出かけたのですが、帰り道に少し寄り道をして借り湯に浸かっていると、どうしても帰りたく無くなってきてしまいましたので、そのままその宿に泊まることにしたのです。そして疑われるのです。泥棒に。
 このようにいきなり泊まることが習い性となっていますので常に着替えなども持ち歩いています。この時も泊まるとなれば必要と思い車に取りに行ったところ、小生の車を二人の警官がなにやら調べているようなのです。近づくと丁寧ではありますが明らかに疑っている様子で「貴方の車?この荷はどこから?」との詰問。子細を話し、氷室蔵の持ち主の電話をお教えして連絡を取って頂き、ようやく疑いが晴れた次第でした。
 まあ、こんな作業の時は、汚い繋着か履き古したジーンズなので、小生の風貌風体はどうやら怪しく見えるらしく、それもとっくに自覚していてこのようなことにはもう慣れてしまっているので、腹の立つこともありません。第六回でも認めましたが「食いつぶし物の自殺者」と間違われたこともありました。

 警察への通報は宿の女将からでした。このような場合、一度疑いが晴れてしまうと歓待とまではいかなくても宿の対応がかなり良くなります。この時も女将が平身低頭で謝罪にこられ特別料理のサービスがありました。女将の話しによると群馬でも最近納屋や蔵荒らしが増えてきていて、一月前には木製の蔵の扉が盗まれたといいます。当の盗難に遭った方は「たいした物が入っていなかったので、いっそのこと蔵ごと全部を持って行って欲しかった」と言っていたそうです。そう言えばつい最近も寺から仏像を沢山盗んでいた奴が捕まりましたよね。
 安い部屋に泊まったにも関わらず、女将から板前さんにまでも見送られて宿を後にした翌日は快晴。もうこのままで帰るのは勿体ないと、赤城山麓に向かい南面を北上してみることにしました。できれば美味い蕎麦にでも巡り会えばもっけの幸いと思いながら。

 昨年の十二月、渋川から吾妻川沿いに上って上流を目指したことが有りました。途中畑仕事をしている婆さんに旨い蕎麦屋はないか?と尋ねると「昨日打って食っちまったよ。あたしの蕎麦も旨いよ。残っていたら食わしてやるのにな」とのこと。何でもその婆さんの蕎麦は焼いたネギと塩だけで食べるらしいのです。
 残念がっていると、その婆さんの蕎麦の師匠にあたる人が四万温泉の方で蕎麦屋をやっているらしく「気まぐれで何時やっているか分からないし、電話も無いので確かめようも無い。食えたら宝くじに当たったようなもんだけど地図を書いてやるから行って見るかい?」と言われ、一か八かに賭けて見ることにしました。何でも看板などは一切出しておらず、普通の民家の軒下に小さな椅子が5~6客置いてあるのが目印とのことで、ミミズがのたくったような地図を見ながら、まさにミミズがのたくったような道を行くと、何と「宝くじ」に当たってしまったのです。

 当初は気むずかしい婆さんを想像していたのですが、愛想が良く話し好きな人で、蕎麦が出てくる前の話に30分もかかり「そうだ!蕎麦を食いにきたんだよな」と、ようやく蕎麦を茹で始めた次第。「今日は客はこねえ」と言いながら、出てきた蕎麦は皿に乗っていて意外に細く、別の皿には塩と焼き目の付いた下仁田くらいの太さの葱と、婆さん手作りの味噌のみで「葱をかじりながら蕎麦を食え」とのこと。絶品でした。鼻先に持ってくる前に蕎麦の香りが立ち、腰の良さも相まって口の中でも香りが広がります。こんな蕎麦なら醤油の香りや出汁などは余分なのも、塩だけで本当の蕎麦を味わえます。炙った葱も甘く婆さん手作りの味噌との相性もぴったり。聞くと蕎麦の育てから挽くまでを全て自分でやるから「だから幾らも作れねえんだ」とのこと。
 「子が三人、孫が七人いても誰も継がねえ」と少し寂しそうに言っていた婆さん「もう客はこねえから持ってけ」と6人前の蕎麦と葱10本を手渡せられ、その分の代金をお支払いしようしたのですが受け取って頂けず、婆さんの畑仕事を手伝うことで返させていただいたことがありました。

 そんなことを思い出しながらの赤城南面の道のりは木の芽時で麗らか、子細に見ると蕗の薹や蕨、タラの芽などが沢山出ているのです。少し開けた所には摘み菜も自生していましたので早々に靴を履き替え、山に分け入り山菜採りに精を出しました。山道はもう何年も人が入った形跡が無いくらい草木が茂っていました。これは好都合な状況です。こんな道の先にはだいたい木々の開けた蕨などの自生地が有るからです。
 途中には大きな山椒の木が有り、新芽が一杯に吹いていましたが、棘がいっぱいありますのでこれに手を出すことはできません。この新芽を沢山摘んで佃煮にすると美味しいのですが諦めることにしました。そして開けた所、そこには人の手の入っていない蕨やタラノ木が沢山自生していたのです。気づけばセメント袋一杯の山菜、我が家で喰らうには多すぎますので、帰り道で出会った爺さんに分けてあげたところ「最近足腰が悪くなって山にも入らない、ありがたい」と喜ばれ、何と変わりに新鮮な卵を頂いてしまいました。風も無く柔らかい日差しの下で、しばらく身の上話しに花を咲かせましたが、その爺さん御歳九十三で今でも畑仕事をしているとのこと。「お元気ですね」と言うと「こんな空気と野のものを食っていると長生きするもんだ」とおっしゃる。「良い所ですよね」と言うと「あんたみたいな若い人が来たらこの村も活気が出てくるんだけどな」と還暦の小生が若者と言われてしまいました。「今度は夏に来な、うちの胡瓜は美味いから」と、また新しい知り合いが一人増えた上州行でした。