第4回 小生の茶杓の事について

 第二回目に続いて小生の制作している茶杓について書いてみたいと思います。
 あくまでも「小生の茶杓」のことですから、ここで書く「茶杓考」は専門的な茶杓の話ではありません。専門的な知識をご要望の方は、博学な方が沢山おられ、それぞれに解説書を執筆なされておられるのでそちらをお読みください。

 小生の茶杓。またの名を「小錦の耳かき」とか「象の耳かき」と言います(小錦さんと象を一緒にしては余りにも失礼か!)。
 切っ掛けは、知人に渡した小生の「耳かき」を見て「こんなものを作らないか?」と言われ見せられた茶杓。安易に「簡単じゃねぇか」と思い「4、5日もあれば出来るよ」と返事をしてしまったことから始まりました。
 当時、小生の家内が茶道の手習いをしていましたので、持っていた茶杓を見本に、竹はちょっと熱をかけると曲がりますので、2~3日くらいで出来上がりました。勇んで知人にお見せしたところ「これ何?」とのこと。少しカチンときて「茶杓です!」との小生の返事に「カタチだけはね・・・棗に座らぬものは茶杓とは言わぬ」とのたまわれ、その場で突っ返されました。腹が立ちましたね。その時は。

 当時の小生は、結構安易に物事を請け負っていました。本職のグラフィックデザインでも、当初は「俺に出来ぬものは無い」という自信(幻想)めいたものを持っていて、何でもかんでも請け負っていましたし、どんどんこなしていました。コンペティションで落ちた時などは「彼奴らには俺のデザインは分からねえんだ!」などと思う始末。しかしある時、とあるクライアントから自分のデザインを論理的に、完璧に否定され、自信喪失に落ち込んでいた時に立ち直る切っ掛けの言葉を頂いたのが「茶杓の知人」で、その言葉とは「自信は過信と裏腹、一度自分を捨ててみたら・・」というものでした。
 「目から鱗」とはまさにこの事、捨てた自分を取り戻していく過程で、遅まきながらも気づいたことは「全てにおいてゼロから始める」ということでした。

 そんな時期の後でしたので、立った腹も納まってみると「ここはやはり一から・・・」との思いが自然と湧いてきました。とりあえずは「茶道」を知らなくてはと書籍を読み漁り、一通りの知識を身につけた後、現存する千利休の手になるもと言われる茶杓を見回りました。また一流の現代茶杓師の作品なども拝見し、茶道とその道具の奥の深さを改めて知ることになったのです。
 どのような「道」も同じですが、伝統ある道は険しいものですね。小手先でちょこっと作ったものは、やはり木っ端でしかありません。一流のものには「美」が有り、明確な「思想」が存在します。単なる竹を曲げた杓でありながら「流麗」で、しっかりとした存在感があります。

 その後の小生はといえば「まずは真似から」と千利休の茶杓の複製造りを始めました。結論から言いますと、作り初めてから20年、当然今でも千利休の茶杓の模造は出来上がっていませんし、一流と言われる現代茶杓師の足下にも及びません。ただ、その過程で何本も出来てしまった茶杓を所望される方がおられましたのでご進呈申し上げ、喜ばれたこともありましたので、小生の茶杓も多少は形になってきたのではないかと、心密かに思っているこの頃です。

 正式な茶道様式(茶会など)では杓だけを用いることは無いらしく、杓を筒に入れたもの一体で茶杓として用い、しかも杓と筒は同じ一本の竹から作られたものでなくてはならないということです。小生は本煤竹しか扱っておりませんので、共筒茶杓となると、1本の竹から3つくらいしか出来ません。その他にも表千家や裏千家など「家流派」毎に様々な決まりが有るらしいのですが、小生茶道具造りが専門ではありませんので、その全てには手が回りません。そこで小生の「へそ曲がり根性」が顔を出して来るのです。

 千利休が草を築いた時代以前の茶杓は象牙や鯨の髭だったりしていたのだから「必ずしも竹である必然性は無いじゃないか」と、またまた我が茶杓造りの道も我がヘソと同じように曲がり始め、今では煤竹、黒檀、鉄刀木、イスの木のす抜け、柘植、八重山黒檀などでも造っています。このような茶杓は正式な茶道では邪道だと言われ、使われることは無いとのことですが、正式な茶会の席ではなく、気心の知れ有った友人達と略式で「気楽に茶を楽しまれる方」にお使い頂ければ本望と思い、少しづつではありますが造り続けています。最近は色ガラスなど用いた茶杓なども有りますので(非常に綺麗なもでした)、邪道は小生に限らず、他の方も歩いておられるのですね。

 と、以前に書いていた小生ですが、最近手がけたのが茶道具史上もっとも有名な茶杓として知られる「泪の茶杓」の模倣です。
 ご存じの方もおられると思いますが「泪の茶杓」とは豊臣秀吉に切腹を命じられた千利休が、その猶予期間の間に自らの手で削った中節形の茶杓で、その茶杓を使用した生涯最後の茶会の後に弟子の一人である古田織部に分け与えた茶杓のことです。古田織部は利休から授かった形見の茶杓を分身と見立て、その分身を奉る社としての黒漆を丹念に塗られた真塗りの筒。黒く塗り上げた塗り筒の中にある茶杓を絶えず拝むことができるようにと、茶杓の節にあたる部分に小窓を空け、毎日その茶杓を拝したと伝えられています。

 自身を「へそ曲がり根性」と言いながらも時に気づくと本道に関心が向いている。もしかしたら「自分はへそ曲がりでは無いのかも知れない」と時に思いますが、へそは少し曲がっていて、世の中を斜めから見ているくらいが面白いのでないかと・・・。