第2回 写真にのめり込むまで

 小生、物心ついて以来の動物好きで、犬や猫は当然として昆虫から爬虫類、両生類に至るまでその範囲は及びます。ですから小学生の頃の夢は、動物園の飼育員になることでした。
 それは中学生になっても同じで、中学二年の時に、当時の上野動物園の園長の古賀忠道氏宛、卒業したら就職したい旨の手紙出しました。その返事は「獣医免許を持っているか、または農業畜産関係の高校を卒業しなくては飼育員になれない」と丁寧なご返事を頂戴しました。そこで都立園芸高校を受験するも不合格。残った道は獣医になることで、当時一番権威のある日本大学農獣医学部に入るため、当時日大と関連の有った帝京高校に受験し、合格した次第です。
 しかし、いざ高校に入ってみても、勉強はせずに動物園通いの毎日で、日曜日はカメラを持って野田の鷺山通いです。当時の “野田” とは醤油で有名な亀甲万(キッコーマン)の発祥地で、周りには豊かな田園が広がっていたため鷺の餌が豊富で、日本最大級の一大営巣地となっていたのです。

 高校二年の半ばには、日本大学農獣医学部の入学費や学費が高く、貧乏な小生の入る大学ではないということが判明しました。(なにより勉強をしていませんでしたので、毎学期の期末テストは全科目赤点で、学力は最低。大学に受かる可能性は0%と担任に言われた=それでも何とか卒業できたのが、今思うと不思議です)そうなると自分の今後の進路を決めなくてはなりません。一つの道は、北海道に行って酪農を学ぶ事です。もう一つの道は、飼育員になることを諦めて他の職業に就く事です。

 動物好きは、物心付いた時から今でも変わりません。そんな小生の事を動物たちの知っているのか、過去には小生にだけ懐いたカラスが一羽いて小生が散歩に出かけると、どこからともなく飛んできて頭上でカアカア~と鳴き、歩みを止めるとそばに舞い降りてくることもありました。
 以前、仕事で富士サファリパークの取材をしたことがあり、子どもではありますがライオン、虎、チーター、シマウマの全てが小生になついて、飼育員に驚かれたこともありました。(さすがに親のライオンや虎には触れさせてもらえませんでしたが・・・)
 今のように、犬の躾や盲導犬・警察犬の調教などの仕事は有りませんでした。もし有って、知っていたら、絶対にその道に進んでいたと思います。

 結果的に飼育員を諦める道を選択することになるのですが、選んだのは、野田の鷺山通いで稚拙ながらも培った写真の腕を充実させることでした。当初は写真が好きでカメラを手に入れたのではなく、動物の写真が撮りたいがために写真を始めたのです。ですから構図などのことは度返しで、ちゃんと映っていればそれで良かったのです。(当時は動物園の動物と鷺の写真しか撮っていませんでした)

 そんな小生に、いつも現像に出している写真屋の親父が「ここはこうした方の構図が良いよ」とか「背景はもっと暗い方が鷺が引き立つよ」とか、店に行くたびに一言二言いうのです。初めは「うるせぇ~なぁ~」と思っていたのですが、ある時、逆光の夕焼けの田で餌を啄んでいる鷺の写真を見て、写真屋の親父が「すばらしいじゃないか」とほめてくれたことがありました。そこで始めて“写真”というものが、小生にとって単に記録するものではく、作品として認識できるようになったのです。そして「写真の表現方法はもっともっと奥が深いので、とりあえず写真の技術を身につけてみたらどうか」との親父の一言に、飼育員を諦めることになった自身の将来の道が、何とか見えてきたのです。飼育員を諦めた当初は、やけくそになって山をかけずり回っていましたが、このあたりの話しはいずれ認めます。

 当時は当然のことながら、今のようにデジタル写真はありません。カメラにフィルムを装填し、撮影したフィルムを現像し、フィルムから印画紙に引き伸ばさなくては写真になりません。こういうアナログ写真の事を“銀塩写真”と言います。写真関係の本を読むと、今まで写真屋任せであったその行程の全てを自分で処理出来ることが分かりました。そして印画紙に焼き付けるテクニックや表現方法は言うに及ばず、写真の硬調度や軟調度も、現像液に配合する薬品の比率によって、自由自在に操れることも分かりました。これはもう写真の道に進むしかありません。

 そこで、写真の技術を身につける為にはどうしたら良いのか、という事から調べ始めました。当時は今のようにインターネットなどは有りませんので、調べ方も当然アナログです。写真屋の親父を始めとして、写真を知っていそうな人であれば、誰彼かまわず、ずうずうしく聞き回りました。
 そして分かった事は、一つの道はカメラマンの助手になることです。当時の助手は、下働きとして現像などのいことは一切させてもらえず、スタジオの掃除やカメラマンの荷物運びから始めなくてはならず、給料も月額1,000円程度。これは交通費にしかならない額です。ただし、このメリットは撮影現場に立ち会うことが出来ますので、カメラマンの撮影テクニックを盗み見ること(当然「教えてくれる」などと言うことは一切ありません)ができることです。しかし当時の我が家は極貧でしたので生活費を入れなくてはならないため、この選択は出来ませんでした。

 もう一つの道は、当時の写真業界においてもう一つの最先端を行っていた“写真製版”の会社に入ることでした。当初は写真製版のことなど全く知らなかったのですが、化学薬剤の本を読んでいたらそこに出ていて、どうも写真の現像と同じ薬剤を使っていることが分かりました。この事を高校三年の担任に話したところ、たまたま写真製版の会社に勤めている方を知っていて、写真製版会社を教えていただきました。
 それは高校の三年に入ってからのすぐのことです。居ても立ってもいられず、紹介状も何も無しに、いきなりその会社に押しかけて「夏休みにアルバイトをさせて」と頼んだのですが、人手は足りているとのことで断られてしまったのです。その夜は眠れませんでした。翌日も学校が終わるとまた押しかけました。「こんな忙しい時間に来られてもこまる」と言われましたので「何時に来れば良いですか」と聞くと「夜9時ころかな」と言うので、翌日は9時丁度に押しかけました。そしてまた断られます。そんなことを続けて一週間、とうとう「分かった、明日部長が居るので5時に来なさい」という言葉を引き出したのです。そして部長と面接です。「他にアルバイト先はいくらでもあるのに何で我が社なんだ?」との問いに「何としても写真製版の技術を身につけたい」と訴え、ようやく夏休みのアルバイトを許されたのです。後で話していただきましたが、その部長は当初より小生のことを見ていて、その必死さが伝わったとのことでした。
 そしていよいよ夏休みに入り、アルバイトを始めますが、それが驚きと発見の毎日が続く小生の写真への本当の第一歩です。

 アルバイトをさせて頂いたのは、ある大手印刷会社のグループ会社で、カメラ雑誌の印刷用の製版フィルムを制作していました。当初は、そんなに大きい会社だとは思っても見ませんでしたが、後になって分かって驚いた次第です。
 そしていよいよ夏休み初日、嬉しくて、朝5時に目が覚めてしまい、定時よりも1時間も早くの勢い込んでの初出社。そこには、あの部長が待ちかまえていました。そして以下のような内容の誓約書にサインさせられました。
◆ 社内で見聞きした設備およびシステム等のことを社外の人に話してはならない。
◆ 社内に、カメラを持ち込んではならない。
◆ 退社時以外、就業時間中に社外に出ることはきない。
◆ やむおえず就業時間中、社外に出る場合は人事部長の許可を得る。
◆ 入社時および退社時は、必ず人事部に報告する。これを怠った場合、1週間の出社停止とし、その間全額給与減俸とする。
◆ いかなる物であれ、社内の物品を社外に持ち出してはならない。

 実は、このような誓約書にサインさせるほど、技術的な機密でいっぱいな会社だったのです。ですから、今までにアルバイトを雇用することが無かったため、当初の人事の冷ややかな対応も頷けました。

 この会社は、レタッチ部門と製版部門に別れています。
 レタッチ部門とは、製版で撮影したフィルムに付いているゴミやキズなどを修正したり、ヌード写真等の陰毛などを消す作業のことです。当時の雑誌のヌード写真は“陰毛”は禁止でしたので、このような作業が必要でした。篠山紀信氏らが撮影したヌード写真には、どうしても多少映っていましたので修正が必要でした。
 そしてもう1つが、小生がどうしても入りたかった製版部門です。
 とりあえず「午前中は社内の案内」と、部長の後について、各部署の説明を受けながらの一通りの見学です。そして部長と二人きりでの個室で、弁当業者のものと思われる昼食。「就業中は、毎日このような弁当が支給されるから、絶対に自分の物は持ち込まないように」と言われた弁当。これが小生にとっては、けっこう豪華なもので、後で分かったのですが、決められた日給(他の一般業種の1.5倍)から、夏休み40日間の毎日の弁当代は一銭も引かれていませんでした。

食事も一段落した後の会話
部長:君はレタッチと製版のどちらで働きたいのか?
小生:絶対に製版です!
部長:製版は機密事項が多いが守れるか?
小生:絶対に守ります!
部長:製版は一日中立って仕事をしなくてはならないができるか?
小生:山をやっていたので、絶対にできます!
部長:薬剤を使うから手などが荒れるが平気か?
小生:中学・高校とも化学クラブで経験していますので絶対に大丈夫です!
部長:製版部門の遅刻は絶対に許されないが、平気か?
小生:学校の成績は最低ランクですが遅刻は1回もありませんので大丈夫です!
部長:就業時間は長いが平気か?
小生:山で1日18時間以上のアルバイトを経験しているので大丈夫です!
部長:製版部門にはいろいろ厳格な規則が有るがちゃんと守れるか?
小生:規則は絶対にちゃんと忠実に守ります!
部長:分かった。午後から製版課長の指示に従って働きなさい?
ということで、いよいよ念願の写真製版でのアルバイトがはじまります。

 「アルバイトと言えども、ここでは危険な薬剤なども使っているので、各所に掲示してある注意事項や厳守事項は頭にたたき込んで、正社員と同じ気持ちで作業を行わなくてはならない」と課長に言われ、以下の事を再度誓約させられました。
◇ 朝は6時半に出社して、全ての暗室に電気を点け、隅々まで丁寧に掃除をすること。
◇ 朝8時までには掃除を終えて必ず朝礼に出席すること。
◇ 退社時は製版部門全員の許可を得てからすること。
◇ 万一薬剤の調合を頼まれた時は、依頼者の名前と配合薬剤名および用量を書いたメモを持って 私(課長)に渡し、薬品棚の鍵を受け取り、調合が終わり次第速やかに鍵を返却すること。
 そして「今日はこれから皆に挨拶をして回り、担当者の許可を得てから各部屋に入って、掲示されている注意事項を見逃さずに見て回って確実に覚えること」と言い渡され、午後は4時まで挨拶回りに費やしました。
 一通り挨拶を終えて課長の所に報告に行くと「ついてきなさい」と言われ、行った先が、なんと何と薬品室。厳重に管理された薬品室はおおよそ6畳ほどで、壁面の薬品棚には今まで学校の化学部室では見たことも無い薬品で一杯。更に計量機器などは、学校で使っていた上皿天秤の、何十倍もの正確性のある計量機が鎮座していました。これには驚きと興奮としか表現のしようがありませんでした。
 通常、写真のフィルムや印画紙の現像には、メトール、無水亜硫酸ナトリウム、酸性亜硫酸ナトリウム、ハイドロキノン、炭酸ナトリウム、ホウ砂、ホウ酸、ヨウ化カリウム、臭化カリウムなどの薬品を、極軟調、軟調、ノーマル、硬調、極硬調の仕上げ方に合わせて調合しますが、特殊な現像方法などもあり、時にシアン化カリウム(青酸カリ)などを配合することもあります。ですから薬剤の扱い方は非常に繊細で、厳重な注意が必要なのです。そんな、一般人では入手困難な薬品が全て揃っている薬品室は、小生にとっては天国のようなものでした。(←あまりにもマニアック?)
 「これからフィルム現像液を作るから、手伝いながらよく見ておきなさい」と言われ「無水亜硫酸ナトリウム○○グラム。次は臭化カリウム○○グラム」と、次々の指示に、計量していく小生を見て「部長から聞いてはいたが、薬品の扱い方は正確なようだな」と褒められた次第。
 現像液作りが終わったのは6時ころ。「今日は始めてなので疲れていると思うから、もう帰りなさい」と言われ、退社することになったのですが、疲れなどは全ったく感じず、ただただ楽しく、帰りの都電ではそれが顔に出てニヤニヤしていたらしく、「あのお兄さん、何で笑っているの」と小さな女の子がお母さんに聞いていたのを覚えています。ただ、家に帰り、夕食を食べた後すぐに寝てしまったのですから、緊張もあってか疲れていたことは確かだったのでしょう。

 我が家は父親が早くに亡くなりましたので、以後母、祖母、三兄弟は極貧の常態に追い込まれました。幸い父が建ててくれた家が有りましたので、住む所には不自由しませんでしたが、収入の道が絶たれてしまいました。ですから、5歳の頃より、薪拾いや包丁研ぎから始まって、新聞配達、牛乳配達など、小学校から高校まで、働いていない時期が無いくらい、あらゆるアルバイトを経験してきました。しかし今度のアルバイトは、今までのアルバイトとは全く違っていました。小生の感覚では就職したような思いでしたのです。

 さて、いよいよ翌日から意気揚々と出社。すると、小生の名札の所に指示書なる箱が置いてあり、その中に「○日作業/2号製版機/3番現像液12リットル」と書いた紙が入っている。課長に聞くと、「それは今日の作業指示で、その現像液を調剤し2号製版機に届けて、今日はそこで手伝いをすると言うこと。薬品室に1番から6番までの各現像液の処方箋があるから、その通りに調剤しなさい」とのこと。初日からいきなりの調剤作業です。
 現像液を作って届けると「今日は私の作業を覚えなさい」と言われ、2号製版機の担当者の指示に従って、メモを取りながらの作業が始まりました。当時の写真製版は、今と違って全てアナログでしたので、その作業工程は多岐多様で、説明されても分からないことが多く、1日の作業の終わりに取ったメモの整理をしなくてはなりませんでした。そんな小生のメモの整理に担当者は、就業後2時間も付き合ってくれたのです。
 そんな毎日を繰り返すうちにメモも取らずに作業の手伝いを出来るようになり、皆から可愛がれ、重宝されて、いつしか現像液の調剤作業は小生の係と、何となく決まって行ったのです。そして気づけば夏休みもすでに残り5日となった日、部長に呼ばれ「君さえ良かったら、卒業したら来ないか」との誘いです。もう嬉しくて嬉しくて、その時は本当に涙を流しながら「お願いします!」という言葉も震えていたのを覚えています。
 クラスの皆が、未だ卒業後の進路を決めかねていた二学期の始めに、すでに就職先が決まっていた小生にとって、一番大事なのは、とりあえず高校を卒業することでした。もし留年でもしたら、せかっく誘っていただいた部長の顔を潰すことになってしまいます。ですから二学期から小学・中学・高校の12年間を通じて、始めて真剣に学業に取り組んだのです。と言っても、成績は相変わらず学年の一番下から数えた方が早いくらいでしたが、担任から「これだったら何とか卒業はできるだろう」と言われるまでにはなりました。
 9月からの約半年は、卒業試験用の勉強半分と、あと半分は母にねだって写真製版や印刷に関する技術的な本を買いあさり、読みふけりました。おかげさまで一通りの写真製版や印刷の知識は身につき、後は現場での実作業に、いかに適応できるかというところまで達したのです。
そして翌年の2月下旬。「もう入社は決まっているけど、形式的に履歴書を出して」といわれましたので、早々に提出し、面接も終えて、晴れて正社員と決定されたのです。

 こうして小生は写真にのめり込んで行ったのです。