第1回 自己紹介

 まずは自己紹介から始めるとしましょう。
 小生、頭髪も白く、かなり寂しくなってきた「じじい」のグラフックデザイナーです。
 朝起きてまず顔を洗い、まる一日分のコーヒーをポットに入れて仕事部屋に籠もると、トイレ以外はこの部屋から一歩も出ず終業時間と決めている18時半までの日がな一日コンピュータの前で過ごします。時に電話が掛かってくることはありますが基本的にメールのやり取りが主で、電話の時以外は人と話すことがありません。こんな小生を知人は「アスペルガー症候群」と冗談でいいますが、実際にアスペルガー症候群と医者に診断されて苦しんでおられる方も世の中におられますので、小生は自分の事を「組織不適合者」と呼んでいます。
 趣味も同じ部屋にある作業机で行いますが、基本的に業務のコンピュータの前と同じでほとんど姿勢も変わりません。
 
業務は・・・
 ◇グラフィックデザイン全般
 ◇エディトリアルデザイン
 ◇ロゴマークデザイン
 ◇WEBデザイン
 などを手がけていますが、近年は主に表紙デザインから本文デザインまでの一括したブックデザインを中心に制作しています。

趣味は・・・
 ◇煤竹や黒檀を使った細工(耳かき、茶杓、花器、アクセサリー、ペーパーナイフ、簪など)
 ◇漆塗り
 ◇鍛金(始めたばかりで、まずは道具作りの初めの一歩段階です)
 鍛金は10年でようやく一人前と言われるものですので、逝くまでに何とか1つくらい人様に認めて頂ける品ができればと思い始めました。

 小学生の頃より動物園の飼育係を目指していたのですが、当時問い合わせた上野動物園からの返事は「獣医でなくては飼育員にはなれない!」とのこと。地方の動物園にも問い合わせるも全てだめ。 我が家は貧困でしたので獣医大学に進学することもままならなかったため飼育員の夢は断念せざるを得なくなってしまいました。そこでそれまで趣味で撮っていた動物写真家になるべく製版会社に就職、写真現像の基礎から勉強し、その後カメラマンに師事。しかしながら生来組織というものには合わない性格の小生は徒弟制度的な仕事のあり方を嫌って、1年あまりで辞めてしまいました。(このあたりの話は次回以降に認めます)

 その後、幾つものアルバイトを転々としながら、懐がやや暖かくなると金を使い果たすまで地方を放浪していたり山に隠ったりしていました。(いわゆるプー太郎です←もう死語か?)
 そんな折にある出版社にたどり着き、制作部に就職(結婚したのでやむを得ず)することになりましたが、そこはやはり「組織不適合者」の小生、またまた飛び出すことになりました。(それでもここでは何とか4年間続けることができました)
 当該出版社の制作部に在籍した折に制作から印刷、レイアウトなどの若干の知識を身につけたのを切っ掛けに、美大や専門学校を出た訳でもないにも拘わらず、無謀にも独立独歩でやっていけると思ったグラフィックデザイナーとして独立し、有限会社ホワイトポイントを立ち上げたのです。カメラマンとして独立するという選択肢も有りましたが、当時はデジタルは無く4×5の大判カメラが必須で、機材などに多額の資金を要するので断念せざるを得なかったのです。
 独立当初は、グラフィックデザイナーとしての経験も無く、クライアントも持っていない小生ですから当然仕事も無く、家内に食わせてもらっていた状況でした。

 朝早くから家内は仕事に出かけ、子供を保育園に預けに行った後は借家の二階の仕事部屋に隠っていると「ここの旦那さんは働いていないのかね。奥さんが可哀相!あれじゃヒモよね。子供もいるのに」との、近くのばあさん達の話し声が外から聞こえてくることもありました。そんな時はさすがにちょっと辛く、亭主として父親として心が痛みました。
 そこで何とかしなくてはならないと、1年間でおおよそ500社への飛び込みの営業活動をしたことも有りましたがほとんど全滅状態でした。
 それは当然の事なのです。これと言った仕事もしていない小生は過去の作品を1つも提示することもできません。そんなどこの馬の骨かも解らない、単に「自称グラフィックデザイナー」を名乗っている奴に仕事を出すわけがありません。
 
 それでも2社の広告代理店から簡単な仕事を頂いたことがありました。
 その中の1社から「即発注するから急いで制作してくれ」との要求にいさんでお受けし、まずはラフデザインを制作して持参すると当初の打合せ内容と違うと言うので直しを要求されたのです。当初は小生の勘違いかとも思い、方向性と要求素材を再度記して帰り、再度のラフデザイン提出となったのですが今度も「ちがう!」と言われました。そこで前回の要求を記したメモを確認しても今回のラフデザインの方向性はメモ通りでしたのでご指摘すると「ちゃんと言われた事をやれよ!」との無体なお言葉。その後も時間的に不可能な要求や、価格的にも無理な要求であったり、小生のような弱小企業を卑下することばなども投げつけられましたが何とか我慢して、どうにかこうにか納品にこぎ着けることができました。
 しかし、納品から2日後にひょんな事から小生が受注した価格の8倍以上の価格をクライアントに要求していることが判明するにいたって、小生とうとう切れてしまったのです。仕事進行中より広告代理店の担当者から「これでは赤字だよ!」という言葉を何度も聞いていましたので、小生も赤字ではありましたが請求金額をできる限り抑えていたのに・・・。
 結果的に残りのもう1社も要求内容な違うものの、状況は殆ど変わりませんでした。
 そこで小生は決心したのです。広告代理店の仕事は今後一切しない事を。クライアントからの直接発注以外の仕事はしない事を。この姿勢は今でも貫いています。
 その後も苦しい経営状況は続いたのですが、いつしか写真会社の営業をしている幼なじみの友人などの紹介によりすこしづつ仕事が入り、何とか軌道に乗って今まで続けてこられたのはこの仕事が性にあっていたことと、友人たちや周りの方々の暖かいご協力が有った事、そして何よりも愛する家内の絶大な支援が有ったからだと思います。

 そんなこんなで仕事も若干入るようになった時期、クライアントとの行き来に便利と思い50ccバイクを購入したのですが、50ccバイクなるが所以の危険性を感じ、すぐさま自動二輪免許を取得してHONDA WING GL400のアメリカン オンロードバイクに乗り換える事になりました。
 それは正解でした。毎朝、毎夕の子供の保育園の行き帰りはそのバイクで小生が行いました。ガソリンタンクの上に座らせ、両手で小生の腕を捕まらせての保育園の送り迎えに子供は喜んでいたのです。当時の警察も今のように厳しく無く、警官とすれ違う時にも「気を付けて!」と声をかけてくれたくらいでした。
 そしてある時、そのバイクでのツーリング中、間違えて山道に迷い込み難儀していた所、後から追いついてきたバイクの人から「この先はオンロードバイクじゃだめだよ。引き返した方が良い」と言われ、オフロードバイクで颯爽と山道を駆け上っていったのです。そしてそれが頭から離れない小生はオフロードバイクに熱中して行くことになるのです。

 新しく手に入れたバイクはHONDA XL250。同時にブーツもヘルメットも、パンツもジャケットもオフロードバイク用のものを入手しました。50ccバイクの入手からここまでおおよそ1年間。気がつけばバイク3台と衣装2セットを所有することになっていました。まだそれほど稼いでもいないのに。

 当時、小生の弟が二輪排気系部品の製造会社に勤務していた関係で、バイク関係の知人が多くできました。また弟自身もバイクに乗っていたため、山道(オフロード)は初心者である小生は時々運転技法を教わりながら二人でツーリングにも出かけ、徐々に山道での運転技法が身に付いていきました。
 走る道はできる限り本道を避けて裏道に入り、舗装のされていない林道を選び、ぬかるんだ道で泥まみれになることもしばしば。時に運転を誤って二の腕全体を擦り剥くこともありましたが、擦過傷程度の事はオフロードを駆け抜ける爽快さに痛みなどは直ぐに忘れてしまいます。そんな小生が最も入れ込んだのが富士山麓の林道です。
 夏の富士山の五合目以上は徒歩の登山者の領域と考えていますので、迷惑になりますからバイクで踏み込むような事は決してしませんが、五合目から下と富士山周遊道路の間には見捨てられた林道が多くあります。過去に何らかの目的で使うために作られた、獣道では無い道です。そんな道も今では使われない為に、雨水で中央が大きく削られ窪んでいたり、左右の木々が大きく茂り緑のトンネルのようになった所や道の真ん中に気が生えてしまっていることもあります。また過去の土砂崩れの後と思われるガレ場のような所や一面砂の斜面の所もありますので「山道好物」の小生にとっては絶好のところだったのです。
 一度などはそんな道で一人で明らかに迷ってしまい、日が暮れて来たことが有りましたが、そこは過去に登山を経験し、若干ではありますがサバイバルの方法も知っていましたので、慌てず騒がず、その日は早々に簡易テントを張り、非常食を食べて就寝して体力温存に努め、翌日は見晴らしの良い所まで上り、方向を確かめてから下山して一般道に無事出ることができました。こんな事を仕事に空きが出る度にやっていました。

 バイクツーリングというと、最も有名なのがそれぞれが自身の思うがままに飾り立てたハーレーダビットソンを何十台も連ねたツーリング集団ですが、小生このようなツーリングが大嫌いです。別にこのような人たちを否定するわけではありませんが「何が面白いの?」と思うのです。小生、そもそも集団行動というものが嫌いですのでツーリングは自分1人が原則です。時に2人の時もありますが、よほど気心が知れた相手で無くては一緒に走る気がしません。要するに小生は「組織不適合者」なのです。

 また、小生グラフィックデザインの仕事がかなり少なくなった一時期、東池袋の路地裏で「古物店」を開いたことがありました。もともと「骨董」や「工作」が好きな小生、自由気儘な仕事の傍ら、こつこつと買い集めた品が、気が付けば部屋一杯に。またグラフィックデザイナーの仕事が手作業からコンピュータ処理に置き換わってきた時期、コンピュータの処理速度も遅く、待ち時間に「耳かき」などを作っていました。その耳かきが大きくなり「茶杓」となり、孫の手となって、次第にペーパーナイフとなり、気がつけば20年、これも「売るほど」出来上がっていました。そこでかなり安直な思いつきで、以前から一度はやってみたかった「古物店」を始めたのです。本業のグラフィックデザイン会社をやりながらの「二足のわらじ」状態です。
 裏通りに面した店には殆ど客は来ませんので、細々と入ってくるグラフィックデザインの処理は捗りましたが、当然古物店は赤字続きで予定資金も枯渇、このような客商売の知識も経験も無い店は、案の定1年あまりで閉店となりましたが・・・。
 過去を振り返ると、よくもまあ家族を顧みずに好き勝手なことを続けていました。
 こんな「組織不適合者」の小生、思うが儘に好き勝手な生き方を許してくれたのが家族であり、小生を活かしてくれた当時の社会であったと、今では感謝しています。